激録・イタリア留学@ミラノ工科大学そしてブルガリア

ミラノ工科大学とイタリア留学の実情とブルガリア

人種差別だったかもしれない話

    先週Development Studio という授業の初日であった.これはグループワークのクラスである.自分が学部で1年次に行った工作実習の発展版といった印象であった.

 グループを作る際に,担当教員は,出来るだけ異なるバックグラウンドを持つ人々が組むように促した.何故なら異なる性質の者が交わることで,より創造性が発揮されると期待されるからである.主に国籍や専攻が異なる性質の例として扱われた.グループの人数は4人である.

 僕自身もこの考えには大いに賛成で違う性質同士の交流によって新しいものが生まれるし,同じ性質同士では創造には限界があると思う.その為に僕は色々な国籍や専攻の混ざったグループを作りたいと思った.

 そんな中,僕は仲の良くなった同じ機械工学の学士から来た1人のインド人と一緒に話し,また2人のIndustrial Designの学士から来た中国人がはぐれているのを見つけた.他にもデザインの学士から来た4人の西洋系(ウクライナ人,スペイン人?,イタリア系ウルグアイ人,イタリア人?)の人々が良いバランスでグループを作れずに右往左往していた.

 気が付くと,この3者は一堂に会していた.僕はこの中で異なる性質が交わり授業の目的に沿うグループを作るには,機械系の僕とインド人が2手に分かれて,デザイン系の6人を分配し4人4人のグループを作ることであると考え,提案した.

 中国の人は,英語が分からないのか反応が薄かったが,西洋系の人からは言葉ではないが態度で反対を感じた.むしろ西洋系の中の1人が2人の中国人とインド人と僕で,つまりアジア系でグループを作り,他の西洋系は別にグループを作るよう申してきて,且つそれ以外は有り得ないといった態度であった.他の西洋人も何も言わず,黙っていた.僕は反対を唱えようとしたが,その間もなく彼らは,そっぽを向き交流を拒絶した.なので最終的に僕とインド人と中国人はグループを作った.

 しかし西洋系の4人は自分たちがデザインのバックグラウンドしかなく工学系の人が必要なのに,僕らとグループになりたくないというのは不自然であると感じた.

 つまり授業の趣旨を無視してでも僕らと組みたくない他の理由があると推測された.結果,彼らの態度とインド人や中国人が感じたことを総合すると,この西洋人達が僕らと組みたくないのは僕らがアジア人であるからだと推測された.

 その理由は,3つある.1に,彼らの態度が全く僕らと組むつもりを感じなかったこと,2にアジア人と西洋人に分かれたあと,西洋人の1人が自分はデザインだが工学寄りのバックグラウンドを持つから工学系が居なくても大丈夫だろう,といった話をしているのを聞いたこと,3に言葉では伝えられないが,僕らが人種によって疎外されたと強く感じたことにある.

 人種によって疎外されたと感じるのは主観的であり,間違いであるかもしれない.単に僕や他の人が嫌われていたのかもしれない.しかし西洋人の中には僕やインド人と友好的にしていた人もいたので考えにくい.また,僕と中国,インドの4人が人種によって疎外されたと感じたのは共通していた.異なる4人の人間が同様に感じていたのだから,完全なる間違いではないと思う.

 何が正しいのかは分からないし明らかにする必要も無いが,僕たちは非常に悲しい思いをしたのに違いはなかった.インド人によるとその様なことは初めてらしく僕もブルガリアで西洋の人も含め色々な人と交流したが,この様に明確に不快な形で感じたことはなかった.僕の言語能力が低く感じなかっただけなのだろうか.中国人も同様に悲しみ怒りさえ表していた.

 しかし,この様なことがあった時に取る対応として最悪の手段は敵意を剥き出しにして,例の西洋人のグループと相対することである.僕たちが悲しく感じたのは,西洋人や色々な人とも仲良くしたかったのに人種という変えようの無い要因によって拒絶されてしまったからであろうし,真意はともかく僕らがそう感じてしまったからだ.

 つまり元々は人々と仲良くしたいであって敵対することは自分たちの欲求と真反対のことをすることになってしまう.また敵対することは人種による隔絶を無くすことにも繋がらないし,むしろ悪化させてしまうだろう.これは僕の求めている世界ではない.

 僕の求めているのは人種や宗教などに関わりなく違いをお互いに尊敬できる関係性のある世界である.この世界を実現するには何故,彼らが僕らを拒絶したのか考える必要がある.

 彼らがなぜ拒絶したのか考えると,肯定的に捉えれば,単に彼らが僕らのことを良く知らなく恐れていた可能性がある.例えば,知らない土地や国に行くのは勇気のいることとよく言うが,それは知らないことが沢山あり自分の予想を超える事が多く,それに恐怖を感じるからである.

 この恐怖を克服する方法が2つあり,1つは,それについて知ることである.知ることが出来れば予測が出来,怖くなくなるのである.知らない土地でも長く住めば慣れてくるのと同じである.

2つ目は恐怖を抱く人が,それに打ち勝ち,異質なもの同士の交わりの良い点に注目する為にサポートすることである.今回の授業では,そのサポートが不十分であったのかもしれない.

 そして,この話は他人事ではない.何故なら,もしかしたら自分たちが日本では逆の立場になってしまうのかもしれないからである.例えば僕が学部で勉強していた時には,グループワークの時,留学生と一緒になった学生が自分は運が悪いといったような話をしていたのを聞いた.彼によると留学生は日本語が不自由であるからやりにくくなるそうだ.それは事実であり,恐怖を感じるのは仕方がない.

 なぜなら彼も,今回僕らが遭遇した西洋人と同様に異質なもの同士が交わることによる意義よりも恐怖心が勝ってしまい,その恐怖心へのサポートも十分得られず,そういった経験も少なかったので,つい出てしまった発言してしまったのだと思う.

 最後に今回のことを通して西洋人全体がアジア人に対して差別的な思想を持っていると言いたいのではない.むしろ人種を問わず未知への遭遇を起因とする恐怖心への反応として相手に不快な思いをさせる可能性があるので注意しなければならないということである.また,こういった経験を出来るのも海外で学ぶことの意義ともいえる.