激録・イタリア留学@ミラノ工科大学そしてブルガリア

ミラノ工科大学とイタリア留学の実情とブルガリア

自分が人種差別的行動をとらない為には

 コロナの発生から拡大をミラノで過ごしたことにより、せっかく人種差別的問題に自分が直面したので、こういった問題の原因と対応策について考えてみようと思う。社会全体に変容を促すような行動は難しいが自分達が個人レベルで出来ることはあるのではないだろうか。

 自分が人種差別的行動をとってしまう原因となる思考回路を明確にする。

 人種差別的な行動の背景には、もっともらしい理由があれば、他人のことを精神的、外傷的に傷つけたり、不敬な態度をとっても良いと考える人間の思考回路があると考える。またこれが刑罰などの多様な形で社会に組み込まれているので、当たり前と受け流すのでなく慎重に扱うべき事柄であると気づくことが難しくなっている。例えば、犯罪者は犯罪を犯したので罰を受けるべきといったことである。犯罪を犯したという理由があれば罪人のことを法の下に罰して良いとなっている。この仕組みは自分の生まれるはるか以前から人間の社会を統率する上で有効で便利な道具となっているので疑問を感じることは無いが、果たして完璧な制度だろうか。なぜなら犯罪者を罰しても良いという背景には尤もらしい理由があればその人に罰として精神的、外傷的に傷つけることを許容しているということであるからだ。法律というもっともらしい理由があるが、法律は常に完璧なのだろうか。もっともらしい理由というのが客観的かつ定量的に評価できない以上、人間の主観を含む判断になるのではないだろうか。そうなると人間の主観というのは常に最善な判断を下すことが出来るのだろうか。

 ここで提起する問題は法律や刑罰の存在の必要性や妥当性でなく、こういった仕組みが「もっともらしい理由があればその人に罰として精神的、外傷的に傷つけること」の根幹にある、もっともらしいというのが主観的である故に非常に繊細なものの上に成り立っているということである。

  コロナに関する人種差別の問題で言えば、コロナの発生した地域出身のアジア人だから、精神的、外傷的に傷つけたり不敬な態度をとってよいという思考回路があったのではないかと考えられる。このようにもっともらしい理由があれば傷つけて良いという人間の思考が主観を含むゆえに不適切な使用のされ方をすることもあるのである。

 これだけでなく、ネットでの誹謗中傷なども同様の思考回路によって引き起こされているのではないだろうか。何か不適切なことをしたから、誹謗中傷してよいとなってはいないだろうか。

 いかなる理由があっても人間がほかの人間をいかなる形でも傷つけることは許容されるべきではないと思う。それを当たり前のようにやってしまうのは、刑罰の場合でそれが何の説明もなく許容されているからではないだろうか。刑罰の場合は、法律の専門家や制度によって、完璧では無く問題を抱えつつも慎重に扱われているが故に許容されている特殊な場合である。それが理解されず、また議論する機会すら無く、個人個人が各々に自分の主観にのっとって、もっともらしい理由を見つけ人を傷つけることに使っていることに問題があると考える。

 自分達に出来ることはこういった自分自身の思考回路に目を向け、それを誰かを傷つけるために使っていないか考えてみることであると思う。そういった行動の出来る人々が増えれば社会がより多くの人にとって快適なものになるのではないかと個人的には思う。

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トラム(路面電車)@ミラノ