激録・イタリア留学@ミラノ工科大学そしてブルガリア

ミラノ工科大学とイタリア留学の実情とブルガリア

知性と感性と異文化交流

 異文化と触れ合うことでお互いの文化の理解が深まるといったことがよく言われており、また自分も留学など海外で生活した結果、その国の文化や自分の文化、自分自身についての理解が深まるのを感じたことがある。しかし、なぜそういったことが可能なのか、自分の中で納得が言っていなかった。幸いに今回のキャンプを通じて、1つの回答を自分の中で得られたと思う。

 人間の思考を構成する要素として、知性と感性があると考える。知性とは物事に関する知識や理解などを、感性とは物事について心で感じたことといいた感情に関することを指す。

異文化から来た人々の集まる環境で起きているのが分かりやすいのが、知性の交換である。例えば、お互いの言語、音楽、宗教、文化の紹介などである。言語の紹介では、似ている言葉をお互い知って驚嘆したりするのがよくある光景である。自分の経験では、これらの知性の交換は、同じような地域で留学やキャンプに参加すると、参加者の文化背景がある程度一定なので同じような内容に落ち着き、目新しい内容はなくなってしまう。

 上記のような知性の交換は留学体験記や発表会でよく注目されるが、もう一つの感性の交換が忘れられがちである。なぜなら、感性の交換は何気ない瞬間に無意識に発生し自分たちの思考や人格へ影響しており目に見ないからである。

 例えば、セルビアではバスのチケットを窓口で買う際のチケットを売る人の対応は明らかに日本とは異なるものである。イラついている場合や、フレンドリーな場合など、感情をあらわにしている人が多いと感じた。この場合、自分がそう感じただけでなく、そういったことが多く続くと自分もその様に振る舞うようになる気がする。なぜなら日本ではそのような感情を露にする思考の作法は持っていなかったが、反対に当たる、露にする作法を目撃することで、自分にもその作法が備わるからである。そして周りの環境が、どちらの作法を使用しているかによって、自分がどちらの作法を使うのかという決断を無意識的に迫られるし、決断そのものも周りの環境に影響されるのである。日本にいる場合は、日本での作法しか知らなかったので、作法を選択するという経験がない。異文化に触れることで初めてどちらの作法で感情を扱うのかという問題について理解するのである。

 また、感情の扱い方だけではない。例えばセルビアでは、システムやルールがよくわからないことが多い。バスのチケットを運転手から買うはずが、売ってくれなかったり、標識通りに進んでも何もなかったり、ビルを途中まで建設してやめてしまったり、バスの座席は指定されているが誰も気にしていなかったりといったことがよくある。このようなシステムやルールを気にしないという作法に触れることで、初めて自分がそういったことを気にする文化に存在し、そこでの作法に従っているということが理解できる。また、感情の時と同様にどちらの作法を用いるのか良いのか考える必要性が生まれる。

 この他にも、音、匂い、混沌さといった町の様子にも、その国の作法、ひいては文化や思想が反映されている。異国へ行くことで、そのような多様な作法と作法によってもたらされる結果に常にさらされていることで、自分がどの作法に従っているのかが明確になる。また自分がどの作法が好きで嫌いなのか、ストレスを感じるのか感じないのかということも分かる。

 このように感性の交換というのは、他者と会話をしなくても発生しているのである。むしろ、単純な時間としては感性の交換にさらされていることの方が多い。しかし、留学体験記や異文化の紹介で注目されるのは知性の交換の方なので、多くの人は感性の交換の方に意識を払うことは少ない。例えば移動中にスマホなどで音楽を聞くよりも、自分としては乗客の振る舞いや、バスの中で流れている音楽、バスの揺れ具合、景色や建築物といった自分の置かれている環境を観察し積極的に感性の交換を行うほうが面白いと感じる。また、自分の経験では、セルビアの人は英語が話せる人が多く、話せなくても何か話してくれる人が多い。なので、あえて深く調べずに旅を行い、現地の人に分からないことを聞く機会を積極的に設けることで、より感性の交換を促進し、滞在を面白くできる。

 人間を構成する要素は、今まで述べたように知性と感性の両方がある。しかし、なぜ知性の方がより注目されるのであろうか。それは、教育が知性の発達に注目したものが多いからである。小学校から大学受験まで、国語、数学、英語、理科、社会など知的な要素を鍛える勉強が主に行われている。反対に受験に関係ないので、美術や音楽、体育といった感性を鍛えるのに必要な科目には時間があまり割かれていない。

 しかし今まで述べたように人間というのは知性と感性二つの窓口をもって外界と交流し、自分の性格や振る舞いを構成している。にも関わらず、知性だけを重点的に鍛えると、偏った見方しかできない人間を形成することになってしまうのではないだろうか。また、知性を通してしか物事を視ないようになると、異国に行ったとしても、狭く偏った視野でものごとを捉えてしまい、そこでの文化に性急な判断を下してしまうようになるのではないだろうか。こういった知性にしか注目せず、狭い視野を持つことの帰結が文化間の対立や人種差別問題へ発展するのではないだろうか。

 このように感性の交流は知性の交流と同様に重要である。なので、それを可能にする方法として複数の人で絵を描くということを試してみた。1人ずつが前に描いた人の図柄を参考に最終的に1つの絵を描いていくのである。自分や他人の描いたものがどのように解釈されるのか、に文化や感性の違いが反映される。また、描画する際にも自分の感性が反映され、それを見た相手にも影響を与えることができる。そういった意味で、この試みは感性の交換を促進する上で有効であったと感じた。最後にその絵の例を添付する。この絵は自分ともう1人の日本人、スウェーデン人とで描いたものである。

 

自分が人種差別的行動をとらない為には

 コロナの発生から拡大をミラノで過ごしたことにより、せっかく人種差別的問題に自分が直面したので、こういった問題の原因と対応策について考えてみようと思う。社会全体に変容を促すような行動は難しいが自分達が個人レベルで出来ることはあるのではないだろうか。

 自分が人種差別的行動をとってしまう原因となる思考回路を明確にする。

 人種差別的な行動の背景には、もっともらしい理由があれば、他人のことを精神的、外傷的に傷つけたり、不敬な態度をとっても良いと考える人間の思考回路があると考える。またこれが刑罰などの多様な形で社会に組み込まれているので、当たり前と受け流すのでなく慎重に扱うべき事柄であると気づくことが難しくなっている。例えば、犯罪者は犯罪を犯したので罰を受けるべきといったことである。犯罪を犯したという理由があれば罪人のことを法の下に罰して良いとなっている。この仕組みは自分の生まれるはるか以前から人間の社会を統率する上で有効で便利な道具となっているので疑問を感じることは無いが、果たして完璧な制度だろうか。なぜなら犯罪者を罰しても良いという背景には尤もらしい理由があればその人に罰として精神的、外傷的に傷つけることを許容しているということであるからだ。法律というもっともらしい理由があるが、法律は常に完璧なのだろうか。もっともらしい理由というのが客観的かつ定量的に評価できない以上、人間の主観を含む判断になるのではないだろうか。そうなると人間の主観というのは常に最善な判断を下すことが出来るのだろうか。

 ここで提起する問題は法律や刑罰の存在の必要性や妥当性でなく、こういった仕組みが「もっともらしい理由があればその人に罰として精神的、外傷的に傷つけること」の根幹にある、もっともらしいというのが主観的である故に非常に繊細なものの上に成り立っているということである。

  コロナに関する人種差別の問題で言えば、コロナの発生した地域出身のアジア人だから、精神的、外傷的に傷つけたり不敬な態度をとってよいという思考回路があったのではないかと考えられる。このようにもっともらしい理由があれば傷つけて良いという人間の思考が主観を含むゆえに不適切な使用のされ方をすることもあるのである。

 これだけでなく、ネットでの誹謗中傷なども同様の思考回路によって引き起こされているのではないだろうか。何か不適切なことをしたから、誹謗中傷してよいとなってはいないだろうか。

 いかなる理由があっても人間がほかの人間をいかなる形でも傷つけることは許容されるべきではないと思う。それを当たり前のようにやってしまうのは、刑罰の場合でそれが何の説明もなく許容されているからではないだろうか。刑罰の場合は、法律の専門家や制度によって、完璧では無く問題を抱えつつも慎重に扱われているが故に許容されている特殊な場合である。それが理解されず、また議論する機会すら無く、個人個人が各々に自分の主観にのっとって、もっともらしい理由を見つけ人を傷つけることに使っていることに問題があると考える。

 自分達に出来ることはこういった自分自身の思考回路に目を向け、それを誰かを傷つけるために使っていないか考えてみることであると思う。そういった行動の出来る人々が増えれば社会がより多くの人にとって快適なものになるのではないかと個人的には思う。

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トラム(路面電車)@ミラノ

 

コロナによる変化と感じたこと<後編>

 ミラノは全面的にロックダウンになったしコロナの状況が酷いということだろうか、何人か留学生は帰国したようであった。自分は飛行機の費用がもったいないというか、そもそも留学費用がカツカツのギリギリなので、一時帰国するという余裕はないのである。この時期には暖かくなればコロナは収まるだろうといった風説も流れていた。なので夏になれば収まると判断し、また現地にいたほうが事態の変化に対応し易いと考え留まることにした。この時は特にコロナについての情報が錯そうし何が正しく、間違っているのか判断することが非常に難しかった。

 オンライン授業の感想であるが、これは早送りの出来ないYoutubeを見ているようなもので、最初の内は集中力を保つのに非常に苦労した。講義だけでなくグループワークもオンラインになった。そこで一番大切なコミュニケーションが、より難しくなったと感じた。対面であったとしても異なる文化圏の人が集まっており意思疎通は十分難しいのだが、それがオンラインになり、表情や仕草といった情報を得られず、読み取れる情報が音声のみになったことが原因と考える。また技術的な問題としてビデオ通話では常に1人しか話せないことも、それに拍車をかけた。だが不思議なことに現在は、ビデオ通話で会議などを行うことに違和感はない。オンライン授業の悪い点について述べたが、もちろん良い点もある。それは通学時間がゼロであることだ。例えば、朝一の授業では、始まる5分前に起きれば良いし、ベッドの中から受けても問題ない。この点についてはオンライン授業は魅力的である。またチャットのおかげで質問などをし易くなったり、録画がアーカイブされて聴きなおしたり出来ることも良い点と思う。

 期末試験もオンラインになり、試験前には自分の机の周りや下側などをカメラで見せることが必要となった。中にはベッドの下を見せるよう言われた人もおり滑稽であった。

 こういった状況で自分も含め皆、人との交流を欲すようになった。そこでメッセージでしかやりとりしなかった友人らとビデオ通話することが自然と多くなった。ブルガリアで知り合った人と数年ぶりに話をしたり、むしろ疎遠になりがちであった人々と交流が深まることもあり楽しかった。また、その結果、日本では分からないがミラノで感じた限りではビデオ通話をすることが普通になり、抵抗感がなくなったので、それは良いことであると思う。逆に面と向き合ってコミュニケーションすることが貴重で贅沢品の様になってしまったのは残念である。

 ともあれロックダウンは夏ころに終わり、次の学期からは対面授業が試みられた。

 9月に対面授業が始まった。そこで数か月振りに皆、友人らと会い、再開を喜んだりしていた。コロナの前ではさほど盛り上がらなかったであろう会話や、ただの挨拶であっても楽しそうにしていたし自分も楽しんでいた。対面で会話できることに、各々が歓喜し、教室は活気に満ちあふれていた。

 残念ながらそういった夢のような日々も数週間ほどで終わりロックダウン期間が始まってしまった。この時は2回目とあって自分やほかの人、社会も含め慣れているようであった。例えばロックダウンの区分やルールも初めに比べ洗練されていた。すでに自分がロックダウンにおののくこともなく普通のこととして受け入れていた。この様な大きな変化にいつしか慣れてしまうことに驚いた。

 ところで4月にオンライン授業になった直後は人に会うことが無くなり最初は寂しかった。しかし時間が経つにつれて寂しいと同時に思考洗練され創造性も高まる気もした。人に会う事がなく自分や自分の思考と誰にも邪魔されることなく向き合うこどが出来るからであると思う。誰かに会うという事はその人に自分の思考へ介入されることである。それが肯定的だろうと否定的だろうと、それが自分の思考への雑音になっていたと考えられる。

 まとめとして、コロナといった最悪の事態でも良い面を見て日々過ごすしか乗り越える方法はないと考える。

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ロックダウン中の駅と地下鉄の様子。人がめっきり減った

 

コロナによる変化と感じたこと<中編>

 そういった状況にも慣れ年が明けて新しい学期が始まるころの3月に,または日本食が食べた過ぎてしゃぶしゃぶを食べる夢を見て、それが夢と分かり絶望し朝を迎えていた頃に、イタリアにもコロナが到来し瞬く間に広まっていった.

 コロナの拡大が顕著になる頃には新しい学期が始まるまで1カ月もなかったが即座にすべての授業をオンラインで行うことが決定した。評価方法など仔細は決まっていないがオンライン授業の決定、開始が非常に早かった。授業開始時期の遅延が2週間ほどしかなかったと思う。このように日本と異なり細部まで詰めずに行動する部分が、平時では問題を生むことが多いが緊急事態での対応には向いていると思った。日本であれば拙速と批判されたり、批判を恐れここまで早く変化出来なかっただろうと思う。

 また外出制限も即座に開始された。瞬く間に買い物など必要な理由がある場合以外の外出が出来なくなった。空いている店としては、スーパー、薬局、郵便局ほどしかなかったと思う。また中に入れる人の数(密度)が制限されており、朝早くに行かなければ列に並ばなければならなかった。待ち時間は1時間にも及ぶことがよくあった。その時間に神田伯山の講談をよく聞いていた。スーパーでは食品以外の日用品や文房具も売っているが買えるものも食料品だけになったりした。

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間隔を空けて並ぶ

 ここまで対策を講じたがコロナの勢いが衰えることは無く、イタリアの北部の一部の地域では人が死にすぎて火葬が間に合わないなど良いニュースは入ってこなかった。

 自分の生活としては4人でシェアハウスしていたがコロナの影響でルームメイトが地元に帰ってしまい一人で暮らすことになったのでお得感があった。この頃になると、アジア系への人種差別どころでは無くロックダウンに慣れることで皆精いっぱいであったと思う。逆にコロナがイタリアで早く広まったことでフランス系のメディアによるイタリアへの差別的言動が問題となっていた。イタリアが今度は差別される側となっていた。しかし、ここで差別が良くないことと十分に広まらなかったのか、コロナが収まったころにはまた、自分への差別的態度を度々目にするようになり、非常に失望したものである。

 初めてのロックダウンのであったので、どう時間を過ごして良いか分からず非常に退屈であった。あまりに毎日に変化が無いので、曜日感覚を喪失し、時の流れが人生史上最速で進んでいった。日々の楽しみといえば、窓から遠くに見える山々とそこにかかる雲や、沈んでいく夕日を見る事だけであった。たまに発生する雷雨に垣間見える稲妻を見る事でさえ気分の高揚するイベントとなる有様である。自然の美しさを再発見したのは良かったと言えるだろう。

 このころに日本のニュースを見るとコロナの広まりが比較的小さくロックダウンなども行われていなく、ほぼ普段どおりの生活をしているようで非常にうらやましいと感じていた。

 ところでコロナの広まる前はヨーロッパではマスクを着ける事が普通ではなかった。2016-2017年にブルガリアに留学したときに、自分が風邪をひいてマスクを着けたとき、イタリアやドイツの友人に非常に驚かれたのを覚えている。なので当時はマスクを着けるのに抵抗があったが現在は全くそれを感じない。

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窓からの眺め

 

コロナによる変化と感じたこと<前編>

 コロナが発生して2年ほどが経った。折角イタリアでコロナを経験したので忘れないうちに自分が感じたことについて纏めようと思う.

 コロナの発生が報道されたのは2019年の12月8日のころか、朝ごはんにインドネシア産の袋めん+キャベツを食べ日本を思い出していたが毎日はやめとけと友達に言われ、控えるようになった頃か、運よく日本の米で作った梅干しおにぎりを頂き感動していた頃と思う.コロナについて日本は大丈夫であるかなと思う程度で他人事として構え、また、季節性のインフルエンザ程度ですぐ収まるだろうと考えていた。この時のコロナウイルスの世間的な呼び方は武漢肺炎であったお思う。

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         Indomieの袋めん

 ミラノから遠い国の出来事であるからといって、自分には何も影響が無かったわけではない。むしろ大きな影響があった。それは、アジア系に対する人種差別感情に関わる問題である.コロナの発生元が中国と分かった頃から、欧米では人種差別的問題に関わる事件などが報道されていた。しかし自分には関係のない話だと考えていた.というのもコロナが武漢肺炎と呼ばれていたこともあって、差別の標的となっていたのは中国人が多かったからである。しかし、この関係ないという認識は間違いであった。自分の感覚として中国人と日本人との区別を無視し一括りにして考えることは少ないが多くの、特に国際感覚の欠如した人にとって、中国人というのは日本人だろうが何だろうが中国人的な顔を持った人々という一括りを示す語である.日本人にとって欧米と言うときにアメリカ大陸にいる人とヨーロッパにいる人を一括りにしていることを想像すると分かりやすい。このことを思い知らされるように自分のことを見て中国人とイタリア語で言われたり、罵られたり、また地下鉄で距離を取らているような気がしたとういことが多々あった.もっとも地下鉄で普段からどれくらいの距離があったかなど意識していなかったので比較のしようが無かったし距離を取られた方が感染しにくく安全で快適ではあったのだが.

 また、こういった外的な要因だけでなく人種差別の問題がニュースやSNSで頻繁に取り上げられたことで自分も含め一部の人は敏感になりすぎていたという内的な要因も、ほかの人の態度を差別的なものと、より捉えがちにしていたのかもしれない.何がともあれ,コロナの発生直後はこういった人種差別の問題が一番の影響であった.

 ところで同時期に日本でも中国人に対する人種差別的な問題があるというニュースを目にした.欧米や日本とでは文化的違いが大きいが対象が違うだけで、緊急事態に際し、得たいの知れないものへの恐怖を和らげる為、又は、そういったことが発生した受け入れやすい理由を見つける為、人種差別的行動をとるという様式は残念ながら一致していて面白い.

 コロナによって諸々の人種差別が確立されたのでなく人々の間にそういった感情はもともと存在したが,普段は、そこまであからさまに態度に表していなかったのだろう。しかしコロナというもっともらしい理由が出来た途端に,その名目のもと、大ぴらに始めることが出来ると無意識に思った人が多かったから、この様な事態になったのではと考える.

 Reference: *1

留学先の検討方法(ヨーロッパ編)

 留学先探しは難しいです.なぜかというと言語の違いもさることながら,知り合いがいなかったり,実際に行けないからです.

今回は現地へ行かなくても,ある程度どの様な学校なのか知ることの出来る方法を紹介したいと思います.3つあります.

1.HPの作りこみと使いやすさ

 大学はそれぞれのHPを持っています.情報収集するときに,よく使います.

自分の経験としてHPがよく作りこまれていて使いやすい場合,その大学の組織もしっかりしている傾向があります.なぜかというとHPが作りこまれているということは

・広報にお金を割くほど財政的に余裕がある

・学生を呼び込もうというモチベーションが大きい

ことが考えられるからです.組織がしっかりしていないと入学の手続きや入学後,ビザなどで問題があった際,対応が遅かったり適切に対応してもらえない可能性があります.学生への関心が低いということは学生へのサポートにも関心が低い可能性があります.

2.英語版の情報量と現地語版の情報量の違い

 英語が第一言語でない場合,大概,現地語と英語でHPが書かれています.よくあるのが英語版には情報がほとんど載っていなかったり準備中である場合です.HPですら英語版を準備できていないとうことは英語で学べる講義もあまり多くないということが予想出来ます.また入学後や在学中の諸手続きなども英語で”スムーズ”にできない可能性があります.

 英語のHPがあったとしても文法の間違いが多いものがあります.それはその大学の英語のレベルを反映している可能性があります.英語で行われるコースでも間違いの多い英語であると理解が難しくなります.

3.連絡した際の返信の早さ

 多くの場合 prospective studentやinternational student 向けの質問フォームやメールアドレスがあります.ミラノ工科大学の例↓

Politecnico di Milano: International students office

ここへ連絡した際,1日や2日,数日内で返信があると信用できる組織であると思います.しかし返信が1週間や1か月後となると問題かもしれません.なぜなら入学後や入学手続きのスピード感を反映している可能性があるからです.また在学中に何か連絡してくても,それくらいのスピードでしか返信してくれないと考えられます.ちなみに夏休みやクリスマス前後は休暇の期間なので総じて返信が無かったりします.

 このように情報収集の段階でそれぞれの大学の性格を推し量ることができます.また諸手続きが遅いからといって意義のある学びが出来ないということでもありません.多角的な視点から情報収集することが肝要であると思います.

たくさん食べよう安く食べよう@ミラノ

ミラノで食費を浮かそう!

 出費の中で食費は大きくなってしまって困るのですが,食事は好きなので減らす訳にはいきません.となると安い食材を買うしかないのです.なので今回は安い食材の手に入る場所を紹介しようと思います.

また基準となる食材としてmortadellaハムを用いる.これはスーパーで一番安く買える肉食品である.生肉よりも安い.またイタリア発祥のハムで現地感も味わえる.

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%87%E3%83%83%E3%83%A9

Penny market

https://www.pennymarket.it/

 だいたいの物はここで安く買うことが出来る.店舗の数と場所を考えるとこの店が一番便利である.Penny marketのカードを作ると割り引きが適用されてさらに安くなる.特にモッツァレラチーズの500グラムが一番安いのはここだと思う.オリーブオイルやトマトソースもここで安く買える.mortadellaハムは700グラムで2.4ユーロほどである.

In’s Merucato

https://insmercato.it/

 自分が一番気に入っているスーパーはここである.店舗はPenny marketより少ないが,より安い食材が多い印象である.例えば1kgのパスタは0.59ユーロで,2kgのインド米が1.79ユーロ,500gのトマトソースが0.35ユーロなど多くの物がPenny marketより安い.また菓子類を充実していて安い印象である.カット野菜も300gで1ユーロほどであったと思う.残念ながらモッツァレラチーズmortadellaハムの値段は700gで3ユーロ越えてPenny marketには叶わない.また店舗数もPenny marketより少ない.

Esselunga

https://www.esselunga.it/cms/homepage.html

 実はこのスーパーは一番割高なのだがmortadellaハムは一番安く売っている.700gで2.18ユーロである.またイタリアで有名なNutellaというNocciole(ヘーゼルナッツ)のペーストがある.本家のものは高いがEsselungaブランドのものは同じような味で安く売っている.

Merucato

 しかしながら,これらのスーパーで野菜やフルーツも一番安く買えるわけではない.もっとも野菜やフルーツが安く買えるのは市場である.イタリア語でMerucatoという.毎日どこかしらで開催されている.時間は,だいたい朝の9時から14時までが多い.以下に場所を検索できるURLを貼る.

https://mercati-settimanali.it/Milano/mercati_settimanali-tutti

自分はセキュリティ警告が出ても無視して大丈夫でした.

 市場の店によって値段が異なるので安さの基準と買い物の仕方を示そうと思う.

例えばパプリカ(peperoni)やズッキーニ(zucchini),ブロッコリー(broccoli)が1kgで1ユーロ前後が一番安い価格帯である.この価格帯の店に行けば他の物も大概安い.良い店を選べば安くても質の良いものが手に入る.店に陳列している食材を良く見て見定める必要がある.

 買う際には自分で袋詰めするパターンとお店の人に数と品物を申告して購入するパターンがある.混んでいると前者の場合が多い.また,ぼーっとしていると順番を抜かされるので注意しよう.また,大きなお札はおつりが無い可能性が大きいので小銭などを準備しよう.Merucatoにはスーパーでは目にしない食材が多く,季節感も感じられ面白い.他にも古着や雑貨,本も安く売っているので歩いているだけでも楽しい.

 あまりに遅い時間に行くと売り切れている可能性があるので10時くらいに行くのがおすすめである.